ハイテク (養老孟司、カミとヒトの解剖学)

 どうも養老孟司氏はハイテク化が進むことをずいぶん心配しているらしい。
 ちなみに「ハイテク化」とは「予測可能、統御可能にする」ことであり「よりいっそう脳化する*1」ことだそうである。その論でいうと確かにコンピュータとその上で動くプログラムはまさに「予測可能、統御可能」であるし、MMORPGは脳化社会の理想的な実現方法のひとつだろう。
 ところで、そのハイテクが骨の髄まで浸透している人ほど、ハイテクを「予測可能、統御可能」のようには考えていない。
 コンピュータが正常に動かないことに対して「怒る」人は、確かにハイテクに対して「予測可能、統御可能」という幻想を抱いているのであろう。だが、ハイテクにどっぷりと浸かっている人は正常に動かなくても「仕方がない」と思うだけであるし、どちらかと言えばローテクに対して「予測可能、統御可能」という信頼を置いているくらいである*2
 ゆえに「畏敬とは、なにものとも知れぬものへの真の畏れであろう。九割はハイテクで結構だが、残り一割、そこにそれを残してもらいたい」という心配は杞憂に過ぎない。「ハイテク」も所詮は今までヒトが作ってきたモノと同じなのだから。


 蛇足になるが、より脳化しているといえるゲーム世界ですら、「乱数」という形で「予測不能」なものを積極的に取り入れているのであるから、ヒト(あるいはヒトの脳)は完全に「予測可能、統御可能」なものを望んではいないのであろう。少なくとも「予測可能、統御可能」なモノを「つまらなく」感じ、「予測不能、統御不能」なモノを「面白く」感じるように、ヒトの脳は設計されているらしいのだから。


(補足)

*1:自然(=肉体)という「予測不能、統御不能」なものを廃することもそのひとつ。

*2:だから養老氏が「『すべてが予測可能で、統御可能であり、かつまたそうでなければならない』。ハイテク化した人間とは、すなわち、そう信じる人間のことである」と言うのには違和感がある。この定義が正しいとするならば、「ハイテク」に関わっている人間ほど「ハイテク化した人間」からは程遠くなるだろう。