唯脳論からみた「オタク」

オタク=構造主義

 「オタク」は「構造」主義者である。いや、構造主義者の一部を「オタク」と呼んだのであろう。
 なぜなら一般には「機能」が分かれば充分だからである。「構造」なんてどうでもよい。例えばラジオは「チャンネルを合わせれば音が出る」という「機能」が重要であり、その「構造」に注意を払う人は少ない。「構造」を知る人はせいぜいそれの制作者くらいであり、場合によっては制作者ですら「構造」を知らない可能性もある。
 ところが「構造」を知ろうとする人、教えようとする人が現れた。だが「構造」は普段身近な「機能」とは極めて異質なため、それを説明されても普通の人にとっては極めて理解が困難である。だから「オタク」というラベルをつけて区別したのであろう。
 「オタク」が「作画」や「設定」といった「構造」を語るのが好きなのは、構造主義者に対して「オタク」と名付けたのだから必然なのである。

声優ファンはオタクか?

 いつの頃からか声優ファン(あるいはアニメファン)のことも「オタク」と呼ぶようになった。基本的に「ファン」は機能主義である。声優の「喋る」という「機能」が好きであることを考えれば、それは明白であろう。
 だから古い「オタク」は「ファン」と一緒にされるのを嫌った。構造主義と機能主義は異質のものであるから、当然の反応と言える。

「萌え」という「機能」

 「萌え」とは何か。これはオタクが考えた「構造」から生じた「機能」に他ならない。
 わかりやすい例は、猫耳や眼鏡、メイドなどの「属性」に対する「萌え」だろう。これは「属性」という「構造」に対して「萌え」という「機能」の現出を意味する。
 これを前述の「オタク」と「ファン」という関係から見ると、「オタクが語る構造」から「ファンが機能を見いだした」ものではないかと推測される。この推測の裏付けとしては、「萌え」という概念が発生した1990年代前半は、まさに「ファン」を「オタク」と見なす風潮が出てきたころと合致することがあげられる。