脚本のダメな部分については原えりすんさんがこことここで書かれていて、設定その他のダメな部分については帰ってきたへんじゃぱSSさんが書かれているので、それ以外の部分について。
僕が面白く感じなかったのは神山健治監督的に言えば「疑問と答えの連鎖がない」「映画としての構造がない」から。
(略)5分たっても映画の向かう先と落とし所(物語がどこへ向かうのかという疑問とラストへの暗示という答え)が提示されない映画は、最後まで見ていてもたいてい糞映画であることがわかってきたのだ。
(『神山健治の映画は撮ったことがない』、p.006)
――という視点で見れば立派な「糞映画」ということになるでしょう。
疑問と答えの連鎖について『サマーウォーズ』を振り返ってみても、「このあとどうなるの?」って思ったのはケンジが逮捕された時とお祖母さまが亡くなった時くらいでしたし、しかもその「答え」があまりにもショボくてげんなりしましたし。
予告を見てなければ彼氏宣言のとこで「おや?」と引っかかってた可能性もあるけど、やっぱりその後が弱いしね。デジモン見てなければ花札勝負でアバターが減ったあたりで引っかかってたかもしれないけど、そもそも花札勝負そのものが盛り上がってないので「なんだかなー」な気分でしたし。
映画としての「構造」があったと思える部分は「お祖母さまが関係各所に活を入れつつ、主人公たちがOZの混乱を収めようとしている」あたりで、他は全くなかった。ああいう現実とネットのクロスオーバー部分に力を入れていれば映画としての構造を獲得できた可能性はあったと思いますけれど、そのへんはおざなりでしたしね。
『サマーウォーズ』は結局とりあえず思いついたネタを突っ込んでみただけであって、それを映画にするための努力は放棄してたのかな、という印象です。その意味では同じネタで60分くらいで作ればもっとよくなった気はします。
(構成としては、お祖母さまが現実で活を入れつつ、裏で主人公やキングカズマやナツキの花札勝負とかでネットでバトルしてるあたりをラストのクライマックスにもってきたほうがよかったんじゃないの? とか思うし。あるいは先輩とのラブが重要ならそういう展開を入れましょうよ*1。なんというか、お祖母さまが亡くなったあとが蛇足っぽい感じなのですよね……)
それでもいちおう形になっていたのはテクニックがあるからだと思います。
マンガもそれと同じで、テクニックの比重が大きくなるほど、誰にでもかける部分、本筋と関係ない「段取り」のコマとかが増えてくる。「オッスオラ悟空!」で始めたらいいマンガを、意味深なアバンタイトルを入れたりしてしまう。1コマで済むところを「流れがよくなる」と3コマ使ってしまう。ラストのインパクトを重視しすぎて、前半がどうでもいい伏線で埋められてしまう。確かにその方が体裁は整うんだけど、その分、その人しか描けないという部分が減ってしまう。形式的にはレベルは高くなってるのに、個性がなくなってくる。これがジレンマなんだ。
ボクもこの闇から長い間抜けられなくって、「理論的には完璧だけど、全然面白くない、前から後ろに流れていくだけのお話」を何本も何本も描いた。自分でも面白くないなあ・・・と思っている。でも、一度身に付いた理論はもう捨てられない。しかも、発達しすぎた審美眼のおかげで、自分の考えることが全部面白くない気がする。ハガレンやワンピのレベルを常に求めてしまう。結果、自信がますますなくなってくる。という状態を、私、5、6年は体験しました。
:: 8/5:頭と身体のズレ | HoneyDipped ::
僕には『サマーウォーズ』はまさに上記で書かれている「面白くない」作品にみえるました。確かに演出技術的には申し分ないかもしれないけど*2、「前から後ろに流れていくだけのお話」としか思えなかったのです。
(キャラとしてよかったのもお祖母さまとカズマだけだしなぁ)