『映画は撮ったことがない』企画と設定と「強度」(pp.104-107)

 『映画は撮ったことがない』を読んでいて思ったことなどのメモ:


 設定の「強度」とフレーム外の存在のお話なのですが。


 これは僕の趣味なのですが、作品にフレーム外の存在として「社会」や「生活」が感じられないとどうも座りが悪くてイヤなのです。
 「社会」といっても作品によって大きさは違ってて、たとえば学園ものであれば「主要キャラ以外の生徒たちの存在感」だったり「担任以外の先生たち」や「親兄弟の存在」だったりするわけですが、異世界(ファンタジーやSF)ものだと「主人公(冒険者)たち以外の一般人の生活」とか「食料の生産と流通」とかが気になっちゃうわけです。
(『ゾイドジェネシス』や『狼と香辛料』が好きだったりするのはそれがあるから、のような気がしています。)
 フレーム外の社会や生活を感じるような作品は設定の強度も上がるので、もっと増えてもいいと思うのですけれど。


 逆に萌え系作品は生活をフレームの中に入れて「ドラマのない日常」を主体にしているように思います。生活を見せることである程度設定強度を担保してるんだと思いますが、フレーム外がないので物足りないように感じるんじゃないのかな、とか。


 それはそれとして。設定の「強度」が強い作品は同人誌が作りやすいんですね。
 フレーム外の社会や生活を想像できるってことは、登場人物たちが作中以外で何をやっているかも想像しやすいってことですから。また社会や生活以外の設定に「強度」があれば、どんなネタを突っ込んでも簡単には壊れませんし、ネタを見た人が違和感をもつこともあまりないんですね。
 設定強度が高い作品の代表は『美少女戦士セーラームーン』でしょうか。あの作品はフレーム外の社会や生活をちゃんと感じさせていて、そういった同人作品が沢山作られましたし。設定そのものの強度も相当に強くて一定のお約束さえ守っていれば何を描いても平気でしたしね。
 まあ『セーラームーン』についてはその設定強度ゆえに、同人以外でも他の作品への影響も相当にあったという意味では希有な作品だったとは思います。


 そういう設定強度の高い企画/作品を最初から狙って作れるのかというとそんな気はあまりしません。基本的には作品の積み重ねで設定強度は上がっていくものだと思いますから。
 文中にもあったように、連載漫画がいいのは徐々に設定強度を上げていける点だと思いますし、アニメでもスポンサー付きで1年以上やっているシリーズものは相当設定強度が高いですね。
(その意味ではアニメ業界だと佐藤順一監督は設定強度の高い作品を作るのが上手いような気がします)
 ただ、フレーム外に社会や生活を出していくことで設定強度をかさ上げすることはできるので、(面倒くさいとは思うけれど)そういう作品が増えればいいのにね、とは思っています。